ブックタイトルあーしあん311

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概要

あーしあん311

3 宮城県の最南端、福島県まで車で5分という場所に住んでいましたが、震災後何度も引っ越しを重ね様々な紆余曲折があり、北杜市に引っ越しました。 震災の日の2日前に大きな地震がありました。今でも思うのは、その地震がなければ、もっと多くの人が助かったのではないかという事です。海辺の町なので、これまで地震の度に津波警報が出ていました。9日の地震は大きく、避難した人も多かったのですが、結局津波は来ませんでした。 なので3月11日に大津波警報が出た時に、ほとんどの人が「またどうせ津波は来ないだろう」と思っていたと思います。本当に今考えても不思議なことで神様に感謝していますが、私は、その日だけは逃げようと思いました。あちこちで塀が倒れている中、何回か回り道をして家までやっとたどりつきました。ちょうどその時、奇跡のタイミングで当時18歳の息子がバイクで戻ってきました。もし彼と会っていなかったら、息子を車に乗せないで避難していたと思います。この事を思うと、今でも胸がざわざわします。 父と息子に「今日は避難しよう!」と渋る2人を無理やり車に乗せて避難しました。高台に向かう途中、なぜか義務感に駆られて、ランドセルを背負った女の子、孫と一緒のおばあちゃんを定員オーバーだったけれど乗せました。そして高台に着いて20分後くらいに津波が来ました。友だちや近所の方も、大勢亡くなりました。数日後、家に戻った時、そんなに古い家でもなかったのですが、一階はぶち抜かれていて柱だけが残っているような状態で、”生かされた“、”家を失っても家族を助けることが出来た!“と思いました。 しかし、避難所の生活に父がなじめず具合が悪くなり、親戚の家に預け避難所に戻る途中のカーラジオで、原発が爆発したというニュースを聞きました。生協の仲間と「青森県六ヶ所村の核再処理施設を稼働しないで欲しい」という運動などもしていたので、原発、放射能の怖さを普通の人より知っていたと思います。だから、私は、津波の被害より、原発が爆発したというニュースに、ショックで頭の中が真っ白になってしまいました。息子には逃げなければいけないと告げましたが、宮城県では津波の被害が大きすぎて、周囲には原発事故の事が声に出せない状況でした。2日間悩みましたが決心し、関西に進学していた娘の所になんとか避難し、最終的には父も連れて来ることができました。その後息子は、「自分の人生は自分で決める」と仙台に就職し今も居住しています。父は、震災を境にうつ病のようになりやせ細り、3年後に亡くなりました。人によっては、避難生活に絶望感を感じてしまう人がいます。 県外に避難移住したことに、理解を得られないままの人が多くいます。でもその誰もが、原発事故さえなかったら、復興のため頑張っていたと思います。県外に避難した人達は皆、申し訳ないという後ろめたい気持ちを持っています。震災後7年目を迎え復興は進んでいますが、原発の被害はまだまだこれから出てくるのではないかと感じています。行政には福島県だけでなく、近郊に暮らす人達も甲状腺などの健康面での検査をぜひ行って欲しいです。これからは、出てきた人間として保養に関わっていきたいと思っています。橋本さん 談プロフィール橋本礼子氏宮城県で津波被害にあわれる。その後、東京電力福島第一原発事故を知り避難。6回の引っ越しを経て、2017年9月に北杜市に移住。